もちろん、朝日の社説も今日を意識したもので…。 NHKの朝の番組も似たような切り口だったけど、こっちのブッ飛び方はいかにもって話。
憲法記念日に―貧困、人権、平和を考える (社説@asahi.com)
昨年暮れから正月にかけて、東京・日比谷公園にできた年越し派遣村。自動車や家電企業から突然首を切られ、転がり込んできた労働者らが炊き出しの食事で命をつないだ。いや、これを昨今の問題として認識しているのは報じる方が今までの怠慢を曝け出していることしか意味しないわけで、越冬闘争は年中行事だから。それこそ、僕が生まれる前から、大阪の釜ヶ崎では行なわれているよ。
25条の問題って、今始まった議論ではなくて、僕が物心付く時からなされていたし、その議論が進化も深化もしていないのを確認するのが5月3日なのかなって思いは無きにしも非ず。
かつての日本に、もっとひどい「貧困」の時代があった。歴史の教科書のような話。歴史の教科書を読んだことがあるなら、この辺りは貧困の問題と言うより、恐慌の問題ってことは分かってそうなんだけど。教科書の書き換えを目論んでるのかしら。
■安定社会への見取り図
昭和初期。漁業の過酷な現場で働く若者の姿を描いた小林多喜二の小説「蟹工船」が発表されたのは1929年。金融大恐慌が始まった年だった。日本でも経済が大打撃を受け、都市には失業者があふれ、農村は困窮して大陸への移住も盛んになった。
そうした社会不安の中に政治テロや軍部の台頭、暴走が重なり、日本は戦争と破滅へ突き進んでいく。
これより少し前、大正時代のほうが「法の精神」は広く行き渡っていたのかなぁだなんて思えてくる。歴史の教科書で大正デモクラシーの項を読んでの感想だけどね
憲法の描く社会の見取り図は明確だ。自由な経済活動によって豊かな社会を実現し、貧困を追放する。同時に国民は平等であり、教育や労働といった権利が保障される。この辺が微妙というか。憲法の描く社会の見取り図が一体どれだけの人に共有されているのかは怪しい。権利-義務の関係さえも怪しい。
知る権利もプライバシーの権利も環境権も生涯学習権もそのほか諸々の権利も、幸福追求権に含まれるんだから、態々憲法書き換える必要がなくって、憲法の範囲内での法整備が要請されるんだけど、唯一の立法府である国会の機能不全が問題だけど、これは朝日の社説とは関係ないね。
こんなしんどい時だからこそ、憲法の前文を思い起こしたい。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」だから、北朝鮮に制裁をするなんてもってのほかだって、言いたいんですね?
で、憲法って言うのは、英語で学んではじめて知ったんだけど、constitutionって背骨と言うか骨組みのことで、日本の国家の骨組みって言うと民主主義というか、立憲君主制だと思うんだけど、その辺の話の認識ってどうなってんだろうなぁって…。公民の教科書をざっと見て見た時には、これって触れられていなかったような気がしたし、この国家の骨組みの問題には義務教育で触れないでどうするんだろうって感じたんで、ちょっと勉強してみたんだけど、これがずっと分かっていないのが戦後史なのかなって結論に至りそう。分かっていない所で、いろんな人が好き勝手なことを言い出すから、話の収拾が付かないんだろうね。
ということで、じつは僕らは憲法を第一章からよく分かってなくって、分からないのはどうしてかって言うと、GHQでの内部権力抗争-G2がどうしただとか逆コースがうんたらかんたらって話-だとか、幣原さんや吉田さんがうまく立ち回ったって言うか、いやあれって美味すぎただろって結果論の話になっちゃうんだろうけど。
で、日本国憲法って立憲君主制の下で、フツーに権力の箍として規定されているし、その辺の認識からスタートするのが現実的かな。まず「法の精神」の共有を行き渡らせる方が先だろう。
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