食の文化シンポジウム2015共食 〜あなたは誰と食事しますか?https://www.syokubunka.or.jp/event/symposium/post017.html・・・サルはエサをはさんで向かい合うと弱いほうが手をひっこめる。サル社会では強い者がエサを独占する。それがサル社会のルール。エサというのはけんかをひきおこしやすい材料なのであらかじめルールを決めておく。おたがいにどちらが強いか弱いかをはっきり了解しあい、弱いものが手をひっこめるということをサル社会ではルール化した。そうするとケンカがお起きない。おきたとしてもすぐおさまる。自分と相手だけでなく相手同士のどのサルが強いかを認識していて苦境に陥ったときにはそれを利用することもある。サル知恵。ところが人間を含む類人猿はそれをやらない。虎の威を借る狐という行為はやらない。何をするかというと、食物を分配する。しかも弱いほうが強い方に向かっていってそれをねだって、獲得する。強い方は自分の力を行使してそれをうばいにいくということはしない。それがゴリラやチンパンジー社会のルール。サルとは真逆の方向で食物が移っていく。人間社会はそちらからきているのではないかというのが私の仮説。人間はもっと気前がいい。相手に求められもしないのにもっていっていっしょに食べましょう、とする。これが共食。人間は餌をさがしにいくときに、自分だけの食欲だけではなく仲間の食欲が頭にはいっている。だから自分で食べる量以上の食物を集め、仲間のところにもっていって分配してともにたべる。それによって仲間との関係が調整できる。関係がつくれる。仲直りや交渉の場に食物が利用できるということを知っているから。それをまったく自然にやっているから実はそういうことをやっているとは意識していない。それほど人間には食物の分配は当たり前の行為。でも、サルから見たらとんでもないことをやっていると見えるはず。そういう変なことを人間ははじめた。その根は類人猿にあり。それをもっと改良して食事という集団行為をつくりだしたということになる。では、なんでそんなことをしたの?それは共感をはぐくむため。そのことによって相手が何を欲しているか、自分をどうみているかということを読む力。共感力を育てたのだと思う。人類神話のキーワードは19世紀からいろいろと変わってきた。19世紀は、人間の知能にフォーカス。道具や武器をつくり言葉を発明していろんな複雑な行為をはじめた。それが人間の進化のキーワードだと思われていた。しかしそれは人類進化700万年の中ほんの最近の出来事だということがわかってきている。言葉もせいぜい数万年前。人類がチンパンジーとの共通祖先から分かれてから、人類の進化を牽引してきたキーワードを考えると、食事だということがわかってきた。なぜ?それは食事の共有が他の類人猿やサルとは違う点であるから。ところで、共食につながる食物の分配は、数多い霊長類の中でも、類人猿と特定の種にしかみられない。そのキーワードは共同保育。類人猿や共同保育を行う種は、子どもの成長期間が長く親が子どもをケアする時間も長い。その過程において、分配行動が大人の間に普及する機会があったのではないかと推察されました。その中からわれわれ人間1種のみに広域の分配がはじまった。親子でもなく近しい仲間でもないのに、見ず知らずの他人に対しても気前よく食物を分配するという行為がでてきた。世界中の民族で、食事という行為は仲間だけで行うのではなく、客人をよんだり、いろんなひとびとの間で行われることが知られている。なんではじめたのか。おそらく危険な地域にでていったので、食物を使っていろんなひとたちと結びつく必要があったのだろう。社会行為につかわれた、そういう歴史があったのであろうと予測できる。・・・人間の社会というのは、家族という自分の見返りを期待せずに自分が保護したいという 気持ちによってつくられている小さな集団-共鳴集団とよんでもいいでしょう-それが集まってできている共同体-コミュニティ-の二重構造をしている。コミュニティの中は互酬的です。何かしてあげれば何かお返しがくる。何かしてもらえば返さなければいけないと感じる。そういう互酬性で保たれている。そこに人間は半永続的に帰属意識をもつ。それがだんだん今、崩壊しはじめている。それは社会が崩壊したのではなく、コミュニケーションの質が変わったから。・・・・食は人間のコミュニケーションの重要な手段であった。近親者という生物学的なつながりを超えて人間をつなぎとめるものであった。それがだんだん個食になり、だんだんと少子化になり、こどもを中心にひとびとがつながることが少なくなってきた。共食の機会が減少してきた。これがばらばらになる大きなきっかけになったのだと思う。しかし家族が崩壊してしまうというのは人間性がどんどん消えてしまうということにほかならないと思っている。子育ては計算ができない。なぜなら時間のかかるものだから。もともと手間のかかるものだから。その手間をかけることによって実は、子供はいろんな人間関係をその中で覚えていく。そして使えるようになる。食もそう。食は経済化できないもの。・・・・いろんなものによって自分の欲望だけを際立たせるようになってしまったことが社会をどんどんばらばらにする源泉になっていったのだろうと思う。それによって失うものは実は共感能力。
コメントを投稿
1 件のコメント:
食の文化シンポジウム2015
共食 〜あなたは誰と食事しますか?
https://www.syokubunka.or.jp/event/symposium/post017.html
・・・
サルはエサをはさんで向かい合うと弱いほうが手をひっこめる。サル社会では強い者がエサを独占する。それがサル社会のルール。エサというのはけんかをひきおこしやすい材料なのであらかじめルールを決めておく。おたがいにどちらが強いか弱いかをはっきり了解しあい、弱いものが手をひっこめるということをサル社会ではルール化した。そうするとケンカがお起きない。おきたとしてもすぐおさまる。自分と相手だけでなく相手同士のどのサルが強いかを認識していて苦境に陥ったときにはそれを利用することもある。サル知恵。ところが人間を含む類人猿はそれをやらない。虎の威を借る狐という行為はやらない。何をするかというと、食物を分配する。しかも弱いほうが強い方に向かっていってそれをねだって、獲得する。強い方は自分の力を行使してそれをうばいにいくということはしない。それがゴリラやチンパンジー社会のルール。サルとは真逆の方向で食物が移っていく。人間社会はそちらからきているのではないかというのが私の仮説。
人間はもっと気前がいい。相手に求められもしないのにもっていっていっしょに食べましょう、とする。これが共食。人間は餌をさがしにいくときに、自分だけの食欲だけではなく仲間の食欲が頭にはいっている。だから自分で食べる量以上の食物を集め、仲間のところにもっていって分配してともにたべる。それによって仲間との関係が調整できる。関係がつくれる。仲直りや交渉の場に食物が利用できるということを知っているから。それをまったく自然にやっているから実はそういうことをやっているとは意識していない。それほど人間には食物の分配は当たり前の行為。でも、サルから見たらとんでもないことをやっていると見えるはず。
そういう変なことを人間ははじめた。その根は類人猿にあり。それをもっと改良して食事という集団行為をつくりだしたということになる。
では、なんでそんなことをしたの?それは共感をはぐくむため。
そのことによって相手が何を欲しているか、自分をどうみているかということを読む力。共感力を育てたのだと思う。
人類神話のキーワードは19世紀からいろいろと変わってきた。
19世紀は、人間の知能にフォーカス。道具や武器をつくり言葉を発明していろんな複雑な行為をはじめた。それが人間の進化のキーワードだと思われていた。しかしそれは人類進化700万年の中ほんの最近の出来事だということがわかってきている。言葉もせいぜい数万年前。人類がチンパンジーとの共通祖先から分かれてから、人類の進化を牽引してきたキーワードを考えると、食事だということがわかってきた。なぜ?それは食事の共有が他の類人猿やサルとは違う点であるから。
ところで、共食につながる食物の分配は、数多い霊長類の中でも、類人猿と特定の種にしかみられない。そのキーワードは共同保育。類人猿や共同保育を行う種は、子どもの成長期間が長く親が子どもをケアする時間も長い。その過程において、分配行動が大人の間に普及する機会があったのではないかと推察されました。
その中からわれわれ人間1種のみに広域の分配がはじまった。親子でもなく近しい仲間でもないのに、見ず知らずの他人に対しても気前よく食物を分配するという行為がでてきた。世界中の民族で、食事という行為は仲間だけで行うのではなく、客人をよんだり、いろんなひとびとの間で行われることが知られている。なんではじめたのか。おそらく危険な地域にでていったので、食物を使っていろんなひとたちと結びつく必要があったのだろう。社会行為につかわれた、そういう歴史があったのであろうと予測できる。
・・・
人間の社会というのは、家族という自分の見返りを期待せずに自分が保護したいという 気持ちによってつくられている小さな集団-共鳴集団とよんでもいいでしょう-それが集まってできている共同体-コミュニティ-の二重構造をしている。コミュニティの中は互酬的です。何かしてあげれば何かお返しがくる。何かしてもらえば返さなければいけないと感じる。そういう互酬性で保たれている。そこに人間は半永続的に帰属意識をもつ。それがだんだん今、崩壊しはじめている。それは社会が崩壊したのではなく、コミュニケーションの質が変わったから。
・・・・食は人間のコミュニケーションの重要な手段であった。近親者という生物学的なつながりを超えて人間をつなぎとめるものであった。それがだんだん個食になり、だんだんと少子化になり、こどもを中心にひとびとがつながることが少なくなってきた。共食の機会が減少してきた。これがばらばらになる大きなきっかけになったのだと思う。
しかし家族が崩壊してしまうというのは人間性がどんどん消えてしまうということにほかならないと思っている。子育ては計算ができない。なぜなら時間のかかるものだから。もともと手間のかかるものだから。その手間をかけることによって実は、子供はいろんな人間関係をその中で覚えていく。そして使えるようになる。食もそう。食は経済化できないもの。・・・・いろんなものによって自分の欲望だけを際立たせるようになってしまったことが社会をどんどんばらばらにする源泉になっていったのだろうと思う。それによって失うものは実は共感能力。
コメントを投稿