「大学入試を廃止」今こそ本気で考えるべき理由橋爪大三郎氏に聞く「大学システム改革論」後編https://toyokeizai.net/articles/-/541116偏差値なんか意味ない 偏差値なんてものは、1970年まで存在しませんでした。偏差値に意味があるのは、同一の試験を繰り返して、人数(母集団)が十分に大きくて、その結果が正規分布するので、予測がつくから。その条件が満たされないなら、何の意味もない。たとえば、早稲田は論文のみ、ICUは英会話のみ、東大は数学一発勝負、という入試だったとすると、いくら予備校が模擬試験をして偏差値を計算しても、合格予測に使えません。予備校が、大学入試そっくりテストをして、大学が予備校の試験にそっくりな出題をするから、偏差値万能みたいな錯覚が生まれるのです。 そもそも大学が、なぜ同じような入試問題を出すかというと、高校が「普通教育」だからです。全員に、まんべんなく同じことを教えて、どのぐらい正しい答えが出せるか、という試験になっている。 でも、この能力は、世の中に通用しない。職業人として生きていくのに、必要でも十分でもない。 これに対して、「職業教育」があります。1人ひとりが、適性と能力にみあった別々のことを学ぶ。医学部なら医学、法学部なら法律、文学部なら文学。その中でも専門分野が細かく分かれていて、すべて必要とされる能力が違う。 将棋の藤井聡太五冠は、将棋はめちゃくちゃ強いけど、チェスをやれば普通なんだそうです。それと同じで、専門家は、数学でも、微分積分はすごく得意でも、数論はまったくわかりませんというような世界なのです。専門では、得意な分野がひとつあればよく、あとは不得手でもかまわない。これが職業の実態です。それを準備するのが高等教育であって、高校までの普通教育ではない。 高校まで成績が良く、偏差値が高くて、東大に入ったら、「燃え尽き症候群」になる学生が多い。本人が何をやりたいのかわかっていない。卒業しても使えない。「その書類まとめといて」と言われれば、できるのかもしれないが、そんな能力に、この国の未来はかかっていません。 社会が必要とする能力は、偏差値では測れないのです。新卒一括採用やめろそれでも偏差値が大手を振っているのは、企業がまだ、新卒一括採用みたいなことをしているからです。上場企業は、「本社採用でいい人材を採りたい」と思い、学生は、「一流企業に入れば何とかなる」と思っている。その考え方は、どちらも間違いです。 採用担当者に聞いたら、5人採って、1人使えればいいんです、と言っていた。なんというムダだろう。 「本社が人材を採用する」という考え方もそのうちなくなる。そもそも本社が、必要なくなる。本社でやっている仕事は、オンラインやAIで代替できるからです。ずっと安い。オフィスも要らない。 それに、新卒採用より、中途採用のほうがはるかにいい。業務をこなす能力を予測しチェックできるからです。 新卒一括採用は、1人ひとりについての詳しいデータがないから、「出身大学」という大雑把な情報で採用してしまう。しかも、「法学部でも経済学部でもなんでもいいから、〇〇大学の人来てください」でやってきた。このやり方は、企業のためにも、本人のためにもなりません。 ほかにどういうやり方があるか。たとえば大学の教員は、そんなやり方で採用しません。あるポストのため、選考委員会をつくります。候補者のなかから、論文など業績を審査し、誰が優れていて、生産性があるのかをチェックする。つまり、中途採用です。偏差値の出番などない。これが正しい採用です。 同じように、本部長や部課長を採用するなら、採用委員会を作り、書類を見て、面接すればいい。「キミもそろそろ課長かな」なんていう順送り人事では、会社のためにも、社会のためにもなりません。 1人ひとりの能力がよく見えていれば、それにふさわしい採用ができます。日本企業は、そのはるか手前の原始的なやり方をやっていて、それに社会全体が振り回されているわけです。 アメリカの大学生は、専門教育を受けるために修士号をとります。大学で職業教育をするわけです。そして、即戦力になって、その業界に参入する。本気で専門で戦うなら、そうでないといけません。しかし、日本の「本社」は、ただ人間が大勢いるだけで、専門などあってないようなもの。本気で戦う人が何人いるか疑問です。 そもそも日本でも、明治や大正時代は、新卒の本社採用なんて考え方はなかった。本社ビルはとても小さく、本社の社員はごくわずか。全国に工場や現業部門があり、大部分の人びとは、現地採用。これが資本主義です。 売上が伸びるからと、本社の部署を水ぶくれで増やしていくのは、昭和35年以降の高度成長期に始まった習慣。大学卒業生が大勢、企業に殺到するようになった。それが日本の資本主義だというのは勘違いです。
坂本龍馬の伝説はウソだらけ 「幕末に大活躍」は間違いだった第3回 坂本龍馬の実像と彼が目指した世界https://business.nikkei.com/atcl/plus/00031/031800006/ 実際には、坂本龍馬は日本史にほとんど影響を与えなかった人物でした。もちろん司馬さんも、小説の主人公と歴史上の人物を区別して考えていました。 龍馬ファンに人気がある高知県の坂本龍馬記念館においても、司馬さんは歴史上の人物の「龍馬」と小説の「竜馬」を区別していた、と書かれています。それでも同記念館の展示は、基本的に司馬遼太郎の龍馬観=“司馬史観”に寄っている印象があります。すなわち、多くの日本人がイメージする「龍馬」は「小説の世界の竜馬」と言えます。 問題は、司馬遼太郎の作品の面白さに引っ張られてしまい、小説の内容が“史実”だと思っている人が多いことです。多くの人は小説に合わない歴史的な事実を受け入れず、跳ね返してしまいます。
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「大学入試を廃止」今こそ本気で考えるべき理由
橋爪大三郎氏に聞く「大学システム改革論」後編
https://toyokeizai.net/articles/-/541116
偏差値なんか意味ない
偏差値なんてものは、1970年まで存在しませんでした。偏差値に意味があるのは、同一の試験を繰り返して、人数(母集団)が十分に大きくて、その結果が正規分布するので、予測がつくから。その条件が満たされないなら、何の意味もない。
たとえば、早稲田は論文のみ、ICUは英会話のみ、東大は数学一発勝負、という入試だったとすると、いくら予備校が模擬試験をして偏差値を計算しても、合格予測に使えません。予備校が、大学入試そっくりテストをして、大学が予備校の試験にそっくりな出題をするから、偏差値万能みたいな錯覚が生まれるのです。
そもそも大学が、なぜ同じような入試問題を出すかというと、高校が「普通教育」だからです。全員に、まんべんなく同じことを教えて、どのぐらい正しい答えが出せるか、という試験になっている。
でも、この能力は、世の中に通用しない。職業人として生きていくのに、必要でも十分でもない。
これに対して、「職業教育」があります。1人ひとりが、適性と能力にみあった別々のことを学ぶ。医学部なら医学、法学部なら法律、文学部なら文学。その中でも専門分野が細かく分かれていて、すべて必要とされる能力が違う。
将棋の藤井聡太五冠は、将棋はめちゃくちゃ強いけど、チェスをやれば普通なんだそうです。それと同じで、専門家は、数学でも、微分積分はすごく得意でも、数論はまったくわかりませんというような世界なのです。専門では、得意な分野がひとつあればよく、あとは不得手でもかまわない。これが職業の実態です。それを準備するのが高等教育であって、高校までの普通教育ではない。
高校まで成績が良く、偏差値が高くて、東大に入ったら、「燃え尽き症候群」になる学生が多い。本人が何をやりたいのかわかっていない。卒業しても使えない。「その書類まとめといて」と言われれば、できるのかもしれないが、そんな能力に、この国の未来はかかっていません。
社会が必要とする能力は、偏差値では測れないのです。
新卒一括採用やめろ
それでも偏差値が大手を振っているのは、企業がまだ、新卒一括採用みたいなことをしているからです。上場企業は、「本社採用でいい人材を採りたい」と思い、学生は、「一流企業に入れば何とかなる」と思っている。その考え方は、どちらも間違いです。
採用担当者に聞いたら、5人採って、1人使えればいいんです、と言っていた。なんというムダだろう。
「本社が人材を採用する」という考え方もそのうちなくなる。そもそも本社が、必要なくなる。本社でやっている仕事は、オンラインやAIで代替できるからです。ずっと安い。オフィスも要らない。
それに、新卒採用より、中途採用のほうがはるかにいい。業務をこなす能力を予測しチェックできるからです。
新卒一括採用は、1人ひとりについての詳しいデータがないから、「出身大学」という大雑把な情報で採用してしまう。しかも、「法学部でも経済学部でもなんでもいいから、〇〇大学の人来てください」でやってきた。このやり方は、企業のためにも、本人のためにもなりません。
ほかにどういうやり方があるか。たとえば大学の教員は、そんなやり方で採用しません。あるポストのため、選考委員会をつくります。候補者のなかから、論文など業績を審査し、誰が優れていて、生産性があるのかをチェックする。つまり、中途採用です。偏差値の出番などない。これが正しい採用です。
同じように、本部長や部課長を採用するなら、採用委員会を作り、書類を見て、面接すればいい。「キミもそろそろ課長かな」なんていう順送り人事では、会社のためにも、社会のためにもなりません。
1人ひとりの能力がよく見えていれば、それにふさわしい採用ができます。日本企業は、そのはるか手前の原始的なやり方をやっていて、それに社会全体が振り回されているわけです。
アメリカの大学生は、専門教育を受けるために修士号をとります。大学で職業教育をするわけです。そして、即戦力になって、その業界に参入する。本気で専門で戦うなら、そうでないといけません。しかし、日本の「本社」は、ただ人間が大勢いるだけで、専門などあってないようなもの。本気で戦う人が何人いるか疑問です。
そもそも日本でも、明治や大正時代は、新卒の本社採用なんて考え方はなかった。本社ビルはとても小さく、本社の社員はごくわずか。全国に工場や現業部門があり、大部分の人びとは、現地採用。これが資本主義です。
売上が伸びるからと、本社の部署を水ぶくれで増やしていくのは、昭和35年以降の高度成長期に始まった習慣。大学卒業生が大勢、企業に殺到するようになった。それが日本の資本主義だというのは勘違いです。
坂本龍馬の伝説はウソだらけ 「幕末に大活躍」は間違いだった
第3回 坂本龍馬の実像と彼が目指した世界
https://business.nikkei.com/atcl/plus/00031/031800006/
実際には、坂本龍馬は日本史にほとんど影響を与えなかった人物でした。もちろん司馬さんも、小説の主人公と歴史上の人物を区別して考えていました。
龍馬ファンに人気がある高知県の坂本龍馬記念館においても、司馬さんは歴史上の人物の「龍馬」と小説の「竜馬」を区別していた、と書かれています。それでも同記念館の展示は、基本的に司馬遼太郎の龍馬観=“司馬史観”に寄っている印象があります。すなわち、多くの日本人がイメージする「龍馬」は「小説の世界の竜馬」と言えます。
問題は、司馬遼太郎の作品の面白さに引っ張られてしまい、小説の内容が“史実”だと思っている人が多いことです。多くの人は小説に合わない歴史的な事実を受け入れず、跳ね返してしまいます。
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