18/01/2009

往復書簡?

天声人語2009年1月18日(日)付 (asahi.com)

 生まれて初めて、東京大学の本郷キャンパスに立ち入った。昭和史の舞台の一つ、安田講堂の前に立つ。逸話の重さ、残像の激しさのためか、焦げ茶の建物は意外に小さく見えた▼40年前のきょう、講堂を本丸にして構内に立てこもる学生約700人の強制排除が始まった。出動した機動隊は8500人。学園紛争の天王山、2日にわたる安田講堂攻防戦だ▼学生の演説と警察の退去警告、上空の取材ヘリ。講堂に向けて催涙弾と放水、逆の弾道で火炎瓶と投石が飛び交った。警視庁の担当課長として現場を指揮した佐々淳行(さっさ・あつゆき)さんは、それらが織りなす音の渦を「交響曲不快」と表現する▼先々の不利益を承知でとどまる学生らは、命がけで職務にあたる機動隊員に必死で抵抗した。講堂に籠城(ろうじょう)した島泰三(たいぞう)さんの著にある。「人生の暮れ方に至っても、私は後悔していない。歴史のひとつの局面で、果たすべき義の一端を担うことができたのは、わが人生の欣快(きんかい)である」▼賛成の代わりに「異議なし!」、反対と言わず「ナンセンス!」。全共闘の運動を革命ごっこと嘲(あざけ)るのは楽だが、ベトナム反戦でも大学改革でも、時代と社会に向き合う一途さはまぶしい。その「熱いバトン」を落とした世代の、勝手な感傷だろうか▼テレビの特番で、佐々さんが昨今の青年の冷めようを案じていた。「若者は怒らなきゃ。40度は困るが38度くらいの熱は出してほしい」。あの週末と同じ冬晴れの構内を、センター試験の受験生が埋める。「果たすべき義」に出会える日々、彼らにありやなしや。

【産経抄】1月18日 (産経ニュース@msn.)
「あの東大がこれほど国民に身近なものになったことはない」。そんな皮肉が聞かれたのは昭和44年のことである。1月18日と19日東大の安田講堂などを占拠した全共闘の学生たちと、排除しようとする機動隊との間で激しい攻防戦が繰り広げられた。
 ▼催涙ガス弾や火炎瓶が飛び交う攻防戦は、最後の安田講堂の「落城」まで35時間近くに及んだ。テレビ各局はニュースや特番で生中継し、視聴率は最高で約45%に達した。だから東大に縁もゆかりもなかった人でも、学部や建物の配置に詳しくなってしまったのだ。
 ▼結局この年の東大の入試は中止になる。2日間の攻防で逮捕された630人余りのうち、東大生は40人足らずだった。全国の全共闘運動にとってここが「決戦場」となったのである。「落城」を機に、運動はまるで潮が引くようにして沈静化していったのだ。
 ▼その決戦からちょうど40年、有名語化した「全共闘」世代の大半も企業では定年を迎えている。そんな節目のせいかテレビなどで運動を振り返り、総括しようという動きが盛んだ。だがノスタルジアに浸ってみたり、自らを正当化したりというのなら興ざめな思いがする。
 ▼というのも、嵐のような運動の陰には何倍もの「被害者」がいたからだ。入試中止で浪人生活を強いられた受験生はまだしも、暴力的に勉学の場を奪われた学生や、貴重な本や資料を損壊された教官も数多い。東大の攻防戦でも多くの警察官が傷ついている。
 ▼だが、そのことをまず謝ってからという全共闘世代にはあまり出会わない。昨日、40年後の「戦場」を確かめようと本郷の東大を訪ねると、ちょうどセンター試験の最中だった。正門の前には、あの時とまったく異質の緊張感が漂っていた。

 たまにある2紙の交換日記。師匠クラスの掛け合い漫才を見るようだ。
 内ゲバやはねっかえりがしてきたことは、朝日と一緒で、ここでは僕もスルーする。で、両方に抜け落ちてるのは、当時の大学進学率がどの程度で、過半数の大学に行かない人はどうしていたのかなぁってこと。その点では両方ノスタルジーから抜け出せてないかもね。
 僕の生れる前だから、黙っていろと言われればそれまでなんだけど。

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